・人の欲求は、悪なのか?スピリチュアル
人の|欲求|は、|悪|なのか?|スピリチュアル|
人の|欲求|は、|悪|なのか?|スピリチュアル|から見る話をさせていただきますが、この話について、少し考えさせられる話として挙げられます。
仏教の考えの中には、人が欲求を持つために苦しみが生まれるものであり、人が持ち合わせやすい俗欲を捨てることが望ましい考え方があります。
特にこの考えは、仏教の中でも密教に強く持ち合わせていまして、人は死後、自分自身の人生を見せられる話があり、そこに、動揺や現世に対する執着、後悔などが現れれば、それが「カルマ」となり再び来世生まれることになりまして、「輪廻転生」の輪から抜け出せなくなる考え方があるのです。
私自身、少しこの考えに疑問がありまして、本当に人の「欲求」は、「悪」なのかについて考えさせられます。
心理学者の「フロイト」は、人が食事をするにしても睡眠をとるにしても用を足すにしても、少なからずそこに「快感」が生じるものであり人は「快感」を求める生き物として、それを「快感原則」と提言されました。
極端な話、「存在感」=「快感」と言っても過言ではなく、幸せを感じれば強い「存在感」と強い「快感」も同時に感じることができますよね。
「存在感」を感じられないのは、ただ「存在感」を感じられないだけではなく、人の肉体と精神はお互い影響与え合っているものであり命の危機として「ストレス」も生じやすくなるのです。
「ストレス反応」は、「ストレス」を与えている対象に対し「攻撃」、もしくは、「逃避」の選択状態に置かれどちらにしてもエネルギーを必要とするものであり心身にエネルギーも生み出しやすくなります。
人の「欲求」とは、自分にとって「快感」を求めるものであり、それは自分自身の「存在感」を求めるものでありまして、人の「欲求」が「悪」だとするならば、存在すること自体が「悪」として考えることもできるのではないでしょうか。
スポンサー
人の|欲求|が|悪|なのか、東洋思想の|陰陽|について、|スピリチュアル|
人の「欲求」が「悪」なのか、東洋思想の「陰陽」について、「スピリチュアル」から見るとこの視点から考えさせられる話があります。
東洋思想の「陰陽」では、世の中の出来事の仕組みが全て「陰陽」の気の組み合わせだけで成り立っていると考えられています。
「陰陽」とは、「陰陽」と呼ばれるものがあるわけではなく、例えば、男性と女性、天と地、生と死、晴れと雨、繁栄と衰退など相反する内容を象徴として表したのが「陰陽」です。
「陰陽」は、陽陰と書かない理由がありまして、昔は縦書きであり、陰の気は重たく下降し陽の気は軽く上昇し、お互いの気が交じり合う中で物事が創造されると考えられています。
「陽陰」だと、お互いの気が離れ離れになり、創造のは間逆の破綻と崩壊、二極化が現れやすくなるのです。
男性は女性を求め、女性は男性を求める、人の「欲求」でもあり、これが「悪」だとするならば、物事の創造が「悪」として考えることもできますよね。
手放すのが大切だとするならば、破綻と崩壊の方が正しい考え方にもなるのではないでしょうか。
スポンサー
人の|欲求|が|悪|なのか、|魂の成長|について、|スピリチュアル|
人の「欲求」が「悪」なのか、「魂の成長」について、「スピリチュアル」から見るとこの話についても矛盾するような話が見えてきます。
「魂の成長」、このブログでは何度も話をさせていただいてますが、知識の成長が知識の一つ一つの「気づき」であり、心の成長である「霊格の成長」も同じく心からの一つ一つの「気づき」です。
「霊格」が高まれば、精神的な意味で存在力が高まり、他者の心満たす創造力も高まり、心の「気づき」が多い分だけ物事を見る視野も広がりやすくなります。この話は、難しい話ではなく精神的な意味で「大人」になる話です。
「霊格が低い」とは、精神的な意味で存在力が弱く、「他者の心満たすよりも自分の心が満たされたい気持ちを優先」になりがちであり、心の「気づき」が少ない分だけ物事を見る視野も狭くなりがちになります。この話も、難しい話ではなく精神的な意味で「大人」になる話です。
戦争があったために、平和を求めるものであり、公害があったために環境の大切さに「気づき」が現れるものであり、それは、人々の心の成長を促すものでもありましたよね。
人の「欲求」が「悪」なのか、「霊格が低い人」が抱きやすい「欲求」については「悪」として考えることもできまして、「霊格が高い人」の「欲求」が「善「」として考えることも出来るでしょう。
⇒ 何も言わないでも霊視で視てくれる電話占いの先生っている?
スポンサー


以下のリンク先は、過去記事からのピックアップ記事、50記事です。興味がある場合は、ぜひ、ご参照してください。